“自由”を問い直す
東京新聞2006年4月2日社説より
江戸摩呂日記より
要約版
「小泉首相は、自らの靖国神社参拝について、“心の自由(精神の自由)”は憲法上認められていると言い、これを正当化している。一方、日の丸掲揚・君が代斉唱については起立・斉唱を拒否した先生が処分され、反戦のビラを配った人が逮捕されている。これに対する小泉首相の言及はない。憲法が保障しているのは“権力からの自由”であり、権力者の自由ではない。他者の自由の侵害には無関心であるだけでなく、政府や権力者の自由を規制する憲法を持ち出して、最高権力者である小泉首相が自らの自由にかかる制約をはねつけるところには矛盾がある。」
一部抜粋版
【一部抜粋掲載】
権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。
「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。
首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。
(中略)
不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラを配ったりした人が逮捕されています。
「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。
そこで「自由」について基本から考えます。
一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。
しかし、国王の権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源(えんげん)です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権力者を規制する原理です。
権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。
日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動きもあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付けようとする人たちがいます。
法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。
【以上抜粋掲載おわり】