創価学会の昭和史



元々はこのページですが、文字設定がうまくされていないページで、Googleのchromeだと文字化けして読めませんでした。 

http://www.geocities.jp/showahistory/history04/33a.html

 そこでここに改めてコピペさせていただきました。(^_^;)


(一)勃興;当初は教育団体だった
 
 海外の書籍で日本の現代史を扱った本を眺めるともなしに眺めていると、必ずといっていいほどローマ字書きで創価学会と書かれた単語に出くわして面食らう事がある。一例を挙げれば1967年(昭和42年)10月にアメリカで話題となったハーマン・カーンとアンソニー・J・ウィナーによる共著「The Year 2000」(邦題;西暦2000年、431ページ、9ドル95セント)では、日本の33年後の姿として核武装などが「予言」されているほか、創価学会も言及されており「経済恐慌の場合」勢力を拡大するだろうなどと記してある。ハーマン・カーンは「エスカレーション」という言葉を発明した事で知られる学者であった。翻って日本国内で発刊されている昭和史の本は余り創価学会について触れているものは少ない、いや創価学会が昭和史に果した大きな影響に比して、その扱いは非常に小さいと言ってもいいだろう。誰もが名前は知っているが、その中身はどういうものかはほとんど知られていない創価学会、その創価学会を絡めた昭和のもう一つの顔を覗いてみようと思う。
 
 創価学会、およそ宗教らしからぬ名前だが、それもその筈、戦前は創価教育学会を名乗り、創立当初は純然たる教育者の団体だったのである。初代会長の牧口常三郎は柳田国男などの影響を受けた地理学者で、小学校の校長などを勤めていた人である。かねてから教育改革に燃えていた牧口は「運命の転換は自ら価値あるものを創造し、その実践によって始まる」という信念から、苦境に置かれた立場の人間がそれを運命として諦める事を批判した。そして自ら積極的に解決にあたり、運命を切り拓こうとする姿勢を肯定して、人間の運命の転換は自分にとっても他者にとっても価値のある事であり、それが何であるかを考え、作り出し、実行する事からすべてが始まるとする「創造的価値論」を提唱した。牧口はそうした事の出来る人間を創造的人間として一つの理想とした。
 
 牧口は昭和3年、日蓮正宗(日蓮宗ではない)に出合う。牧口の価値論は小善から中善、中善から大善に進むという方法論であったが、牧口は大善とは何であるかについて「人間社会のため」といった漠然としたイメージしか持てずにいた。学究肌の牧口がこのようなテーマを突き詰めていくと、行き着くところは哲学か宗教かという事になってしまう。そうした時に牧口は日蓮正宗に出合い、仏法による「人間価値の創造」をめざす事にしたのである。牧口は昭和5年に創価教育学会を設立、この創価学会とは人間価値の創造をめざす教育学会という意味であった。
 
 戦前は新興宗教といえば天理教全盛の時代で、創価教育学会は信者も1万人に満たない小さな団体であった。その後、伊勢神宮の神札の下付を拒否した牧口は昭和18年に逮捕され、昭和19年に獄死した。これは反戦思想によるものではなく、他の宗教は形だけでも受け入れてはいけないという日蓮正宗独特の教義によるものである。これが牧口時代で、創価学会前夜ともいうべき時代であった。
 
 組織としては壊滅した創価学会を再興したのが戸田城聖である。戦前に「推理式指導算術」といういわば参考書のようなものを書いて大ベストセラーとなった経歴の持ち主だった戸田は、学究肌だった先代の牧口とは打って変わって、元学会信者だった志茂田景樹に折伏鬼と評されるほど行動力と抜群のカリスマ性を備えた人間だった。ある暑い最中の日、集会の会場には扇風機が1台しかなかった。壇上に座った戸田はその扇風機を自分に向けて、おもむろにこう語りだしたのだという。「皆さんも、はやく、こういう立場の人間になりなさい、信心すれば必ずなれる」。普通の宗教家だったら会場にいる人たちの方に扇風機を向けるだろう。しかし戸田は違った。この品が無いといえば無さ過ぎるパフォーマンスが気迫に満ちた人間性とあいまって、戦後まもなくの躍動感溢れる粗削りの世相にマッチしたのである。事実、この扇風機のパフォーマンスに圧倒されて戸田に人生を託そうと入信した人間は実在するのだ。
 
 昭和26年にようやく5000世帯であった創価学会は戸田の会長在任中、わずか7年後の昭和33年には75万世帯という驚異的な信者数の激増ぶりを示したのであった。創価学会というと池田大作の個人商店のように何も知らない若い世代には思われがちだが、およそ宗教家らしからぬ人間の欲望を堂々と肯定して豪放磊落を絵に描いたような戸田というカリスマがいたからこそ、今の巨大教団創価学会が存在するのである。なお現在の聖教新聞など創価学会がビジネス集団として機能するためのアイディアを発案したのも、この戸田であった。
 
(二)教義;「仏とは生命である」
 
 戸田は牧口時代には無かった新たな教義として十界論の新解釈を打ち出した。十界とは地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の事で、言うまでもないが地獄界がいちばん下にあり、仏界がいちばん上にある。これらは別個な世界として存在している訳ではなく、日蓮が拠った法華経の解釈では人間の心のありようを示すとしている。
 
 地獄界というのは生きている事自体苦痛に感じるような最低の心の状態の事で、餓鬼界とは欲望の奴隷となって苦しむような心の状態を指す。畜生界とは善悪の判断がつかず、他者について考えずに自分の目先の利益を満足させる事だけに一生懸命な心の状態を言い、修羅界とは自分と他者とを比較して常に自分が優位に立とうとする心のありようを示す。外見は平静を装っても内心は嫉妬に燃えている場合などはこれに当たるという。そして人界というのが人間の平常な状態にある心で、天界というのはいろいろな願いが満たされて喜んでいる心の状態を示す。しかしそれは一時的な心の満足で、永続するものではない。
 
 この地獄界から天界までの間を、人間は感情の揺れから1日のうちに行ったり来たりしているのを六道輪廻と呼ぶ。いわば環境や運命といったものに、なされるがままに翻弄されている人間の状態である。
 
 主体的に運命を転換しようとする人間はさらにその上の声聞界に入るという。ここは知識や教養を身につけて自分を磨こうと努力する心の状態で、読んで字のごとく自分が置かれている環境や運命から自分の力で脱しようと謙虚にまわりの声に耳を傾けている状態でもある。そして縁覚界とは何かをきっかけに自分が充足する世界を発見できた状態で、絵を描いたり数式の定理を発見したり、はたまた学問上の真理に気づくなども含まれるという。そして菩薩界で初めて人間は自分のためではなくて他者のために行動する事が出来るようになるという。
 
 戸田に言わせると、こうした十界の入り混じりは誰にでもあるのだという。十界を上がったり下がったりと感じる余裕もなく、瞬間的にこれらが入り混じるのが人間の自然な姿であるという。ただ一つだけ、仏界についてだけは人間の心のありようや姿で示す事が出来ないのだという。仏界とは何か、これが他の仏教とは違う戸田独自の新解釈によれば「仏とは生命である」「仏とは自分自身の生命の事である」という。
 
 敗戦によって物質的にだけでなく、あらゆる価値観が根底から壊れ去った戦後日本において、「苦悩のどん底にあって苦しみの世界しか見えなくなっている状態の時、自分の生命に自分はいま十界のどの世界にいるのか問いかける事で、我に返り自分自身を取り戻す。そして自分のいる世界をはっきりと認識する事で、隠れている他の世界がある事、他の世界がはっきりと見え出す。他の世界が見え出すのと同時に、自己の主体による自分自身の変革へと踏み出せる。その時にこそ人間革命はなされる」という戸田の説法は、気迫と自信に満ちた戸田自身の態度もあいまって、聞く人に異様なほどの説得力を感じさせた。
 
 創価学会になぜ、戦後、あれだけ多くの人が引き込まれたのか。それは世に言われるような強引な折伏だけではなく、仏教について戸田の極めて合理的な解釈によるところも大きかったに違いない。何せ西田幾多郎の哲学の本に行列が出来るような戦後の世相である。敗戦によりそれまでの価値観が崩壊して物も娯楽も無い中で、自分の生き方を模索しようとする人々が多数いた時代であった。誰もが自信を失っていた時代であった。そこに自信満々で異様な気迫を持った戸田が現実の世界にマッチした合理的な仏教解釈を、まるで予備校教師のようなわかりやすさで説くのであるからたまらない。それまでの仏教は死後の救済に重きをなす場合が多く、現世でいかによりよく生きるかを前面に押し出す教義は珍しかった。創価学会は現在のイメージとは違って戦後すぐの世相の中では、極めて合理的な思想を持った時代にマッチした宗教団体だったのである。
 
 また創価学会には特にうるさい戒律などもなく、他の宗教に関係のある行事やしきたりに参加したり従ってはいけない、毎日、題目を唱えるなどといった事さえ守っていれば、それ以上の事は特に要求されなかった事も入信への敷居を低くしていた。学会信者に風俗産業や芸能関係の信者が圧倒的に多いのは身分や門地を問わないという事もさる事ながら、この教義による部分も大きい。キリスト教では同性愛や娼婦は背教であるが、創価学会では別に構わない。また肉食を禁止する宗教などもあるが、創価学会は別にそうした禁止事項は一切ない。
 
(三)危機;カリスマ戸田城聖の急死
 
 池田大作が長期にわたり聖教新聞に連載していた創価学会の歴史を描く小説「人間革命」後継の章には、大石寺の大講堂落慶総登山に戸田城聖が峰首相を招待するがドタキャンされるくだりがある。これは実話で、作中では峰首相のドタキャンは外交問題の突発を口実にしたものの、与党の山田誠之輔議員が「首相ともあろうものが新興宗教のお先棒をかつぐようなことがあっては大変だ」と猛反発したためと解説されている。そして峰首相の代わりに秘書の河部幸太郎と西条敏男議員が出席したとしている。
 
 現実には昭和33年3月16日に岸信介首相が戸田城聖の招待を「外交問題が忙しくなったから」と断ったのは事実だが、その岸首相に圧力をかけたのは宿谷栄一元参院議員と池田正之輔衆院議員で、それら議員のバックには創価学会と対立する日蓮宗が控えていた。そして岸首相の代わりに当日やって来たのは、南条徳男前建設相、安倍晋太郎秘書、そして東京都の安井誠一郎都知事であったが、戸田は南条に「あんたは岸首相の四天王と言われているそうだが、八天王ぐらいだろう」と嫌味を言っている。なお小説「人間革命」に出てくる主人公の山本伸一とは池田本人をモデルにした人物で、学会員ならこの山本伸一という名前や「♪濁悪の、この世ゆく学会の」という学会歌「威風堂々の歌」は誰でも知っている。写真は丹波哲郎が戸田城聖を演じた映画「人間革命」。
 
 大講堂落慶総登山は戸田の最後の晴れ舞台となった。戸田は4月1日に帰京し、4月2日午後6時30分に心臓衰弱で58歳で死去したのである。戸田の最後に付き添ったのは夫人だけだった。大変なカリスマだっただけに戸田の急逝は、まさに創価学会の正念場だった。昭和33年、戸田の死を知った当時の日本人誰もが創価学会はこれでお終いと固く信じて疑わなかったのである。しかも戸田は明確に後継者を指名しないまま死んでしまい、戸田の息子は三菱銀行社員で世襲は本人も周囲も否定していたため、学会内部も混乱を極めていた。
 
 その後、創価学会は小泉隆理事長(51)が暫定的に仕切る形となったが、毎週土曜午後6時に行われた大石寺の質問座談会では4月12日、戸田に代わった小泉の登壇に「ソツがない」と批判が上がった。戸田の頃の質問座談会では戸田は酒が入ったままやって来て迫力ある押し出しでおもしろおかしく臨機応変に回答し、難しい質問には「あんまりいじめるなよ」と返してその場は大爆笑といった雰囲気だったため、人の心をつかむという点で小泉は不利であった。そんな中、急速に頭角をあらわしてきたのが、当時は幹部でも若手であった池田大作である。大森海岸出身で大世学院(東京富士大)を苦学して休学の末、何年も経ってから卒業した池田は本来は文学志望だったのだが、創価学会のビジネス面で才能を発揮、政治力にも優れ、その持ち前の迫力で戸田の後継者の地位を確実なものとした。
 
(四)折伏;やくざより怖い勧誘
 
 創価学会の急成長には見落としてはならない事がある。それが折伏大行進といわれた強引で執拗な勧誘である。これが現在に至るまで信者でない人間に創価学会が悪口を盛んに言われる元凶ともされるもので、昔の創価学会はやくざより怖かったというのは四宮正貴だったかが書いていたが、今の新聞勧誘の比ではない、凄まじい勢いでの折伏が日本中で行われていたのである。勝手に家に上がりこんで神棚を壊しただの、他宗の仏壇を破壊しただのといった話が広まるほどなのだから、半端ではない勧誘であったのだろう。実際に昭和32年6月12日には青森県のキリスト教会を学会員5、6人が囲み、「邪教だ」と祭壇を壊して聖書を踏むといった騒ぎもあった。この折伏戦を体感している世代で学会信者ではない人たちに、創価学会への反感があるのは当然の事でもある。
 
 世間一般の創価学会への反感を煽ったもう一つの出来事として、創価学会は公明党を作って政界進出してしまったという事がある。公明党は元々、王仏冥合などと言って国立戒壇設立などをスローガンにしていた経緯もあり、日本が宗教国家になってしまうのではないかという恐怖心が信者でない人たちに広まった。その後、創価学会は強引な勧誘もやめ、公明党も祭政一致のスローガンは放棄したのだが、その当時の後遺症はそうした時代の創価学会を肌で知らない世代にも、創価学会の悪口を言わせる遠因として残ってしまった。親の世代や週刊誌などの力も大きい。
 
 公明党のネーミングの由来をご存知だろうか。公明正大の公明ではなくて、あの公明党、なんと「三国志」フリークの池田大作が諸葛亮孔明をもじってそのまま孔明党ではちょっと具合が悪いので、公明党と読み方だけ同じで違う字をあてはめたのが初めなのだそうだ。池田が「三国志をはじめようではないか」と檄を飛ばして創価学会は政界に本格的に腰を据えるために孔明党ならぬ公明党を結成した。創価学会の政界進出は戸田城聖の時代にさかのぼる。昭和31年7月11日の朝日新聞朝刊には「爆発的進出の『創価学会』」と題して、参議院に3人の議員を送り込み、地方議会に52人の議員を送り込んだ創価学会についての記事がある。なお戸田の存命中は創価学会の議員らは会派に公明の字をまだ使用しておらず、むしろ選挙キャンペーンなどでお役所が「公明選挙」などとクリーンな投票を訴えるのに公明の字を使用していた。
 
 記事では参院選の選挙違反で戸別訪問にからむ摘発の8割が創価学会関係であったと指摘、病人や家庭内に悩みを持つ人を会員が訪ねては「会に入会して創価学会推薦の議員に投票すれば病気や悩みはたちどころに消える、もし拒めば仏罰で一家は滅びる」などと言ってまわったり、地域の有力者や地方議員には「会に入会すれば多数の会員が次の選挙であなたの手足になって働くようになる」などと勧誘、戸田会長自ら「金は使わないのだから逮捕されるいわれがない」と親類や知人宅への戸別訪問への檄を飛ばしているとしている。
 
 政界進出と合わせて爆発的な会員数の伸びにもカラクリがあった。これも同日の朝日新聞に掲載されている。特に目的を告げず伝言ゲームのようにして大学生を狩り集めて信濃町駅に集合させ、そこからタクシーに乗せて土建会社の寮へ連れて行く。そこでいきなり創価学会の御本尊御下附願という紙に住所、氏名、生年月日を書かせ、そこからまた車で日蓮正宗の寺へと向かい、数珠、巻物、経本などを渡されて「南無妙法蓮華経」と三遍唱える。これが終わると車に再び乗せられて銀座のバーへ。そこで大学生らは土建会社の青年信者らの奢りで閉店までビール飲み放題となった。件の青年信者らいわく、本音ではこういう馬鹿げた勧誘は止めたいのだが、一般への勧誘も頭打ちで、無言の会員獲得の圧力もあってついやってしまうのだという。熱血型だった戸田城聖は新聞記者に身振り手振りを交えて熱弁する。「あやふやな信者がふえるより熱心な一人の信者の方が貴重だ。全く馬鹿な話だ」。
 
(五)対決;天敵は共産党
 
 創価学会の短期間での信者の激増は戸田のカリスマ的魅力や強引な勧誘によるものだけではなく、戦後の急速な高度経済成長の恩恵を受けなかった人々、いわゆる取り残された人々に生きがいを創価学会という「一社会」が与えたという側面もある。公明党と共産党は昔から仲が悪い。それもその筈で、本来なら共産党が取り込む筈だった政権への不満層を創価学会=公明党がほとんど吸い取ってしまったのだから仲がよかろう筈がない。
 
 昭和32年6月26日の朝日新聞朝刊には、創価学会と左翼との直接的な対決ともなった九州や北海道での炭鉱労働者への創価学会の浸透についての記事が掲載されている。炭労の側では、組合員に学会信者が激増して組合自ら推薦する左翼候補ではなくて創価学会の候補にこれら組合員が投票してしまう事から、盛んに反学会のデマなどを飛ばしていた。筑豊労組の古河山田では組合員1000人の中で200人が学会員、麻生には100人、住友忠隈には60人の学会員がいた。ほかにも三井山野、三菱鯰田、日炭高松、明治赤池、日鉄二瀬などの大手鉱だけでなく、共同石炭の島廻、日吉、久恒などの小さい炭鉱にまで創価学会は勢力を広げており、炭労主婦会には1万人の信者がいるとされた。麻生炭鉱の主婦連の会長は学会員だったという。三井山野には学会婦人部が出来ていた。昭和32年4月に福岡市で行われた創価学会総会には観光バスを連ねて筑豊から2万5000人が参加した。
 
 北海道は地方警察によればこの頃、道内に学会員は2万5000世帯で7万5000人いた。これは炭労組合員の数と五分だったが、北海道炭労の中に1万人の学会員がいたという。人生の豊饒を宿命転換に求め、左翼革命より人間革命というこの労働者の末端に位置した炭鉱労働者たちの選択が、左翼陣営に打撃を与えたのは言うまでもない。他には警察にも警視庁に十数人、神奈川県警に20人など当時ですでに全国で200人の学会員がいた。日本共産党にも学会員はいたという。逆にアジア民族協幹部などは右翼活動のために組織を学ぶなどとして学会員になっている。学会員はこの頃、150万人であった。
 
 昭和34年6月4日の朝日新聞朝刊は創価学会が参議院に9議席を占めた事を受けて「国会に新小会派、創価学会」と大きく報じている。識者の意見とされる学者や評論家の意見は、創価学会の政界進出は一過性のもので10年ももたないなどと現在から見るとかなり的外れな事を言っている。この時の参院選で東京地方区で47万票を獲得した柏原ヤスの得票のうち記事では半分が非信者の票と分析され、柏原が元教師である事から教職員票の一部が流れた事、そして山の手の女性らの市川房枝票と競る形で下町の女性らは同じ女性候補でも庶民的に見える柏原ヤスに票を入れた事、創価学会信者の勧誘票が柏原の得票を底上げしたとしている。
 
 柏原ヤスは池田大作の「人間革命」に清原かつという名前で登場する。群像の章では清原こと柏原ら創価学会信者の女教師たちと「レーニン禿」と作中で書かれている日教組幹部との対決が描かれている。あれこれと清原らの活動に難癖をつける「レーニン禿」に、清原の仲間である大島英子は敢然と叫ぶ。「教壇で共産主義を子供に説く先生がいます。名前をはっきり申しあげましょうか。これこそPTAでも問題にしたがっていますが、誰も後難を恐れて言いだしません。これこそ問題です」。日教組の幹部らはこの指摘に恐ろしい見幕でわめき散らす。「人間革命」によれば「彼らは長いあいだ、他人を追及し、批判してきたが、いまはじめて自分が批判されて、狂気のようになったのである」。そしてなおも清原らに嫌がらせを続けた日教組の幹部らは次々に発狂したり病気に襲われて悲惨な最期を遂げる。
 
 創価学会の昭和史の中での最大の功績は、日本の社会主義勢力の支持基盤を創価学会信者として取り込み、社会主義政党の躍進を阻止した事であろう。議会内の政治勢力分野で与党多数による安定は日本の高度成長を大きく後押しした筈である。公明党は野党ではあったが、社会不安を巻き起こす共産主義陣営とは常に一線を画していた。高度成長期に創価学会を支えたのは、経済的な発展から取り残され気味であった階層の人々であった。
 
(六)教勢;華族からグラミー賞まで
 
 創価学会は教勢拡大期にその支持基盤を貧困層に置く一方で、古くからの華族の家系の人も信者となっている。代表的なのが戦国武将の北条家である。この早雲を家祖とする北条家は小田原落城と同時に滅亡はしていない。北条氏直の一族で氏規の子である氏盛が家督を継ぎ、河内で1万石を領する大名として江戸時代も存続した。明治維新後は北条家は子爵となる。そして戦後、この華族制度が廃止されて北条一族はどうなったのかというと、創価学会の名門家系として一部では知られるようになる。池田大作の側近であった創価学会4代目会長の北条浩はこの戦国武将の北条家の衣鉢を継ぐ人物だった。あの北条早雲と創価学会、意外な接点ではある。
 
 子爵家の出であった北条浩は大正12年、神奈川県に生まれ、学習院初等科では三島由紀夫と同窓となり、昭和19年3月、海軍兵学校を卒業、昭和26年6月に創価学会に入った。昭和34年には社長をしていた東洋精光を辞めて創価学会事務局長に就任、昭和40年7月から昭和46年6月まで参院議員を務め、昭和45年1月には創価学会副会長、昭和49年10月に理事長、昭和54年4月に会長となった。そして昭和56年7月18日午前0時53分、心筋梗塞で新宿区信濃町18の自宅で58歳で急死している。前日の7月17日には創価学園の学園祭に出席し、夜は池田大作邸を訪問、帰宅して入浴後「気分が悪い」と倒れたという。
 
 華族出身の学会員は案外に多く、北条家以外にも「週刊新潮」昭和42年9月23日号によれば、元侯爵の久邇実栄、元公爵の三男の島津矩久、元伯爵の長男の伊達貞宗、元子爵の三男の戸田忠輝、元男爵家の古市功、池田伸志が挙げられている。久邇は昭和35年に入信、「ぼくはまだ人間革命の途上にある人間」などと述べている。ほか企業人ではこの時点で大成建設社長の本間嘉平、戸田建設社長の戸田順之助、富士急行社長の堀内光雄の名前が挙がっている。富士急行は創価学会が大石寺へ参拝する際に使うバスの契約を結んでいた企業であり、後に自民党の衆院議員となる堀内に関しては純粋に信仰が目的の入信だったかどうかは不明である。
 
 創価学会組織の結束をそのまま企業管理にスライドさせた事例も報告されている。昭和41年の「週刊新潮」12月17日号には「日本一高給料会社の不祥事 ケチのついた『****(実際の記事は実名表記)』創価学会商法」として居酒屋チェーンYについて特集されている。この企業は当時において1300人の従業員を抱え、135軒の店を持っていたが、従業員のうち95%が学会員であった。木下社長は「妙法による思想統一もする」と学会の信仰を企業経営に取り入れている事を認めたが、信仰については「強制ではない」とも語った。この居酒屋チェーンは従業員のほとんどが学会員というだけではなくて、本社に二宮尊徳の像を置き、「労働と貯金が人生の幸福」という社訓を掲げたり、はたまた位の高い順に大、中、小統帥、大、中、小勲位、大、中、小功位、大、中、小隊位とそれぞれ1級から4級までの軍隊式の階級を設けるなど独特の経営手法で知られていた。木下社長は長野の松本から上京して横浜に初店舗を設け、昭和31年に吉川英治「太閤記」に感化されて豊臣秀吉の若い頃の名前に自ら改名するなど異色の人物でもあった。
 
 「週刊新潮」の記事は集団就職でこの居酒屋チェーンに勤めた17歳少女が午後1時から午前2時までのタイトな勤務(うち1時間は風呂休憩)について告発するという面持ちだったが、給料は月給2万円(手取り1万3000円)と当時としてはいい部類であったのは確かだった。労働時間については厳しいものだったが、従業員のほとんどが信仰で結ばれた関係だったため表立った不満の声はほとんど起きておらず、経営者にとっては労使対立の起きにくい「創価学会商法」はプラスになりこそすれ決してマイナスではなかったようである。
 
 創価学会は現在ではSGI=創価学会インターナショナルの名前で世界各地に進出、グラミー賞のハービー・ハンコック、ティナ・ターナー、「ウエスト・サイド物語」のジョージ・チャキリスをはじめ多くの信者を持つが、かなり早い時期から海外布教に力を入れていた。昭和39年1月28日の韓国紙「世界週報」では1月17日午後7時、韓国のソウル市鐘路三街の希望結婚式場で創価学会の会合が開かれて男性20人、女性40人が集まったと報じられている。これら参加者のうち女子大生などは数人で、大半が貧困に苦しむ人々だった。韓国では昭和38年夏より連日のようにソウルの新聞が韓国人の間に創価学会信者が増えている事を批判、「間接的侵略」と攻撃を続けていたが、教勢はむしろ拡大していてソウルでは信者1000人、大邱では1万人、釜山では3000人、その他の大都市ではそれぞれ500から600人の信者がいた。創価学会は日本にいる韓国人を折伏、日本で教育を受けさせて生活の援助をして韓国へ送り返し、親戚付き合いなどを伝手に信者を広げていた。なお韓国における信者は現在では一説には80万人と言われている。
 
 アメリカでの布教については昭和41年の「週刊新潮」8月27日号「日本望見94 創価学会・オブ・USA」に詳しい。8月13日にマンハッタンセンターで開かれた創価学会の全米総会には3000人が参加、うち日本人以外の顔立ちは会場の10%ほどで、池田大作の英文電報に幹部が「OK?」と会場に問いかけると会場は一斉に「YES」と返すさまなどが描かれている。アメリカ創価学会の会員は大手ではない日本人商社マンや日本からの戦争花嫁らが多かったという。
 
 それでは創価学会の政界進出のその後について述べていこう。昭和39年11月17日には公明政治連盟が衆院選へ打って出るのに伴い公明党として正式に発足、午前9時35分に両国の日大講堂に1万5000人を集めて結成大会を開き、原島宏治を委員長として党員10万人を擁した。
 
 昭和42年1月31日には公明党の衆議院進出を受けて毎日新聞で池田大作が細川隆一郎政治部長のインタビューに応じている。「西欧ではキリスト教倫理を土壌とした政治形態には矛盾を感じないが、日本はまだそこまでいっていない」と公明党のあり方に理解を求め、「日蓮大聖人の根本理念は“王仏冥合”にある」とも池田大作は語っている。さらには公明党の今後について「十年間で、第三党の地歩を占めるべき」「保守、革新のいずれとはいえないが、政治姿勢が確立されて国民大衆の安泰のためということであれば、連立という事態もありうる」「政権獲得の目標は一応二十年後におく」として、「政治は理想主義だけでは動かないものだ」といずれは自民党との連立についても是々非々の立場を強調、公明党は「社会主義という冷ややかな圧迫感のある形態でもない」福祉経済体制を目指すとしている。
 
 また池田大作は「保守党は二つに分かれた方がよいと思う」など現在の政治情勢を予見するような発言も繰り返し、公明党の現在の姿や政治姿勢もすでに衆議院進出の時点で池田大作が考えていた形に近いものである事がわかる。池田大作はこのインタビューの中では創価学会の国教化については否定している。
 
 なおこの年の10月15日には千駄ヶ谷の国立競技場で創価学会の文化祭が行われ、東京五輪以外では日本では創価学会ぐらいというマスゲームを見せた。スタンドでは7万人が北斎やゴッホの絵をイメージした人文字を行い、2000人の女性が集団でバレエをするなどして来賓の美濃部亮吉東京都知事は正面玄関で興奮したように拍手を繰り返した。
 
 昭和45年10月5日から8日まで日本武道館で行われた創価学会の10年文化祭では山本リンダ、本間千代子、守屋浩、泉アキ、沢たまき、高田恭子、平尾昌晃、伊藤雄之助と並んで雪村いづみが登場して話題となった。雪村は昭和41年に山本リンダの勧誘でロサンゼルスで入信したという。
 
 創価学会の芸能人人脈で最も古参の部類では昭和38年の「週刊明星」4月7日号で信者として登場したり、信者である事が確実であると名指しで書かれたものを確認すると、小林哲子、元植真理、三和完児、吉田タケオ、増田多夢、守屋浩、平尾昌章、村田英雄、若原一郎、藤本二三代、生田恵子、宝とも子、天城英雄、柴田珠江、筑紫あけみ、海野かつお、高宮敬二、柳家三亀松、江戸家猫八、井口静波、内海突破、青木笑児、若羽黒、尾崎行雄といった名前が挙げられている。
 
(七)転機;言論妨害事件
 
 昭和20年代後半より一貫して教勢を拡大させてきた創価学会がその動きをストップさせ、世間の創価学会への悪印象を決定的にさせたのが昭和44年の言論妨害事件であった。ここではその経過について、しばらく追ってみようと思う。
 
 この言論妨害事件、最初に取り上げたのは民社党だった。昭和44年11月26日、民社党の民主社会主義研究会議学生文化セミナーのシンポジウム「公明党の虚像と実像」に藤原弘達、内藤国夫が登場、創価学会批判本の出版に際して公明党サイドから圧力があった事を暴露したのである。これに目を付けたのが共産党で12月13日、NHK「総選挙特番」で松本善明が公明党の正木良明をこの件で追及、さらに12月17日の赤旗は自民党の田中角栄幹事長が公明党の竹入義勝委員長の要請で出版妨害に関わったとの藤原の談話を掲載、以降、連日の様に反公明党キャンペーンを展開していった。
 
 昭和45年1月5日、竹入委員長はこの件を否定して政教分離の方針を述べた。1月6日には田中幹事長が「少しおせっかいを焼いた」と事実関係を曖昧に認めるような釈明を行った。1月7日には共産党が国会でこの件を取り上げ、1月9日には民社党が追随、1月10日には社会党が他党が取り上げるならという条件で追及参加を表明した。1月16日、公明党の矢野絢也書記長は著者、版元、書店への接触を認め、「話し合いや要望の範囲内」と語った。
 
 1月18日午前8時、八王子市長房町の高尾墓園で牧口常三郎、戸田城聖ら79人の墓が荒らされているのが発見され、戸田の墓は墓石が動かされているだけだったものの他の墓の中には遺骨をばら撒かれているものもあった。奇しくも同じ日、ロンドンではマルクスの墓が爆破された。この手の墓荒らしの犯人の多くは狂信者や精神異常者によるものが多かったが、ちょうど言論妨害事件にからむ創価学会バッシングの渦中だった事もあり、関係も取りざたされたが犯人も動機も不明であった。
 
 2月9日には生島治郎、五木寛之、梶山季之、佐野洋、戸川昌子、野坂昭如、結城昌治が学会系の潮出版社への執筆を拒否している。2月14日、公明党は両院総会を開き、その中で「共産党を非合法政党にせよ」との意見も出る始末。2月17日から19日までの衆参両院の質疑では社会党と共産党がこの件を取り上げた。
 
 2月23日、言論出版の自由に関する懇談会で1月11日に日大講堂で行われた創価学会学生部のテープが公開された。その中で公明党の渡部一郎国対委員長が「社会党のうすばか」「民社党は気が違っている」「自民党には貸しがある。角と福には黒い霧のヒモがついている」などと口汚く罵る様子が白日にさらされた。無論、渡部は2月27日には国対委員長を辞任、これより公明新聞、聖教新聞では共産党批判キャンペーンが始まる事となった。
 
 出版妨害を受けた藤原の本は「創価学会を斬る」というものだったが、昭和44年10月4日に自民党の田中幹事長から電話が入り、出版中止を求めてきたという。10月15日には赤坂の料亭で田中、藤原が会談、田中は初版だけ刷って増刷はしないという条件を提示、1000部だけ一般ルートに乗って出版はされたというアリバイを作り、ほかは全部、公明党で買い取るから部数と定価を教えるように迫った。10月23日に藤原はこれを拒否、するとIN通信の鶴蒔靖夫が公明党からの依頼を受けたとして、刷ってしまったものは仕方ないからこれ以上の増刷はやめて、残りは公明党が全部買い取ると持ちかけてきたという。
 
 この藤原の件が明るみにでるや否や同様の圧力を受けたという証言がごろごろ出てきた。共産党はマスコミと連動してそれを次々に取り上げていった。植村左内「これが創価学会だ」(しなの出版)は初版の数万冊が日大で焚書にあい、これには当時の自民党の福田赳夫幹事長、賀屋興宣、日大の古田重二良会頭が関与していたと暴露され、昭和42年10月には取次ぎ拒否となっていたという事実が昭和45年になって公にされた。
 
 また内藤国夫「公明党の素顔」はゲラ刷りの段階でなぜか複写が公明党に渡り、赤字を入れて直すように内藤に圧力がかかり、内藤が応じないと昭和44年3月に取次ぎで断られていた。この件についてはゲラ刷りは取次店から入手した事を「週刊朝日」で公明党の矢野書記長が認めている。8月には民社党の塚本三郎「公明党を折伏しよう」が印刷会社からなぜか校正刷りが公明党に渡り、民社党に出版を中止するように要求があった。塚本の本はタイトルも決定していない段階で、一部しか知らない筈の仮題まで公明党に筒抜けになっていたという。11月には福島泰照「創価学会、公明党の解明」も取次ぎを断られていた。
 
 なぜ取次会社は創価学会批判本を扱うのを嫌がるのか。そこには公明党からの圧力以前に、創価学会系の書籍は刷れば確実に40万部ははけるのが出版界の常識で、こんな安全牌のような濡れ手で粟の話は滅多になかったという事がある。しかしこの一連の出版妨害騒ぎで創価学会批判本が売れるようになり、昭和45年3月14日時点で日新報道出版部から出された藤原の「創価学会を斬る」は50万部を突破する売れ行きだった。
 
 5月3日午前12時、両国の日大講堂で創価学会本部総会が開かれ、池田大作会長は「言論妨害を猛省する」と一連の事件の締めくくりの発言をして創価学会と公明党の分離、戦闘的な折伏の改善を約束した。6月25日には公明党大会で政教分離が正式に決定された。この出版妨害事件は共産党の支持を上げて公明党の支持を下げる事になったのだが、それまで漠然と公明党に抱いていた国民の不安が現実のものになったともされたのだった。
 
 この言論妨害騒ぎの余波で、創価学会による教育介入というのも問題化された。これは昭和41年1月、都立深川商業高の定時制で社会科を教えていた鷲見美雄が授業の中で創価学会を批判したところ、1月17日に東京都の総務部長室に呼び出されて公明党の小泉隆、藤井富雄都議に「信教の自由を侵すのは憲法違反だ」と叱責されたというもので、さらに鷲見は抵抗を続けると2月19日から授業停止を命じられて生徒への接近も禁じられたのだった。鷲見はこれを公明党による教育への「不当な支配」にあたるとして損害賠償100万円を東京都に要求して提訴、1審の東京地裁は賠償金20万円の支払いを命じ、2審の東京高裁は公明党の介入は「不当な支配」だとして賠償金40万円の支払いを命じた。昭和52年10月11日午前、都立駒場高講師となっていた鷲見は最高裁第3小法廷で東京都に40万円の損害賠償支払いを命じる2審の東京高裁判決支持の判決を受けて勝訴している。
 
(八)受難;相次ぐバッシング
 
 言論妨害事件に端を発した連日の創価学会バッシング以降、マスコミの間でも創価学会を否定的に取り上げる事が常態化していく。すると創価学会に支えられる公明党への反感というものも一部では噴出するようになった。昭和46年9月21日午後5時、新宿区南元町17の公明党本部正面玄関で、車から出た竹入義勝委員長(45)が殺人で指名手配中の工員、矢島(29)に刃渡り13cmの切り出しナイフで左脇2ヶ所を刺される事件が起きた。犯行動機は宗教絡みであった。矢島は「創価学会は日蓮を利用してけしからん」などと語り、「誰でもいいから創価学会幹部を刺そうと思ったが、顔を知っているのが池田大作や竹入義勝など数人しかいなかった」とも自供した。矢島は6月7日、豊島区上池袋1−31−5の柳沢荘で向かいの部屋に住む看護婦(64)を口論の末に刺殺して逃走していた。
 
 矢島はアパートの部屋にみかん箱で仏壇をこさえて毎朝、数時間も題目を唱えており、殺された看護婦は生長の家の信者だった。矢島は中学卒業後、2年間、神奈川県藤沢市の日蓮宗龍口寺で僧侶見習いをして、立正大仏教学科を卒業、その後、家出をして昭和43年10月22日の新宿騒乱事件で逮捕されていた。矢島は留置場でも題目を唱えるなどしており、日蓮宗や日蓮系の新興宗教について罵り、自分だけが日蓮の教えを正しく理解していると主張していた。
 
 昭和49年12月28日、松本清張の仲介で創価学会は共産党との間に平和共存の創共協定を成立させ、昭和50年7月27日、新聞報道を受けて公表されるが、同年には創価学会による宮本顕治共産党委員長宅盗聴が山崎正友元学会顧問弁護士によって暴露されると死文化している。
 
 山崎正友は3億円を創価学会に恐喝したとして訴えられたが、その裁判の中で池田大作創価学会名誉会長が証人として出廷を求められる事態となった。それは昭和57年10月15日午後に東京地裁刑事15部で行われた「月刊ペン」元編集長隈部大蔵(62)の名誉毀損差し戻し公判で、池田が証人として出廷したのは午後1時半から午後6時50分までの間だった。池田は渡部通子参院議員との女性関係を否定したが、創価学会が「月刊ペン」側への告訴を取り下げて金を払ったという和解問題では、池田を法廷に出さないための工作として北条浩会長が弁護士の山崎正友に金を渡していた事実は認めた。10月20日には山崎正友の29回目の公判に池田は出廷、東京地裁刑事3部に午前9時35分に到着している。さらに10月27日の30回目の公判にも出廷し、創価学会による共産党委員長の宮本顕治宅盗聴について否定している。
 
 言論妨害事件以降、スキャンダラスな話題ばかりマスコミの好餌となった創価学会であるが、昭和58年8月8日には池田大作名誉会長が国連平和賞を受賞している。これは渋谷の創価学会施設で明石康国連事務次長から授与された。ニューヨークの国連本部で現代世界核の脅威展を開き、軍縮に貢献して国連を支持したのが受賞理由であった。国連平和賞はこの時点までに日本人は5人が受賞していて、人口問題で岸信介と福田赳夫、国連機関への貢献で笹川良一、国連婦人運動推進で山口シヅエ、国連民間運動への貢献で小坂善太郎が受けていた。
 
 しかしマスコミが反応するのはこうした創価学会や池田大作が軍縮に貢献をして国連から顕彰を受けたなどといった話ではなく、創価学会の崩壊につながりそうなスキャンダル、あるいは内部からの造反であった。昭和63年5月10日発売の「文藝春秋」に現職の公明党衆院議員大橋敏雄(62)=福岡2区=が手記を発表、創価学会の池田大作批判を行った事件についてはマスコミは大々的な報道を繰り返した。余りの反響の大きさに6月6日に至って公明党は大橋衆院議員の除名を発表、その理由は政治献金の不正収受としたが、あくまで党内の問題処理で片づけようとして大橋衆院議員の池田批判については一切触れないという迷走ぶりを見せた。大橋衆院議員は公明党の処分理由を「でっち上げ」と非難、同日の会見には藤原行正都議(59)も同席した。大橋衆院議員、藤原都議共に創価学会より連日の人格非難や中傷を絶え間なく浴びせられ、信者の大量離反という事は起こらなかったものの、非信者の国民の間では公明党のイメージが悪化する事となった。
 
 しかし大橋衆院議員、藤原都議どちらもその社会的発言力を築けたのは議員バッジによる力で、それは創価学会信者の支援によって得られたものであった事がこうした内部造反の事件ではパラドックスになっている。つまりは大橋衆院議員らの「告発」は逆に学会信者達の結束を固める効果をもたらしたという話である。
 
 創価学会は公称800万世帯、実勢は500から600万人の信者総数と言われているが、社会への影響力は依然、無視できないものがある。メディアでは毎日新聞に影響力を持つとされ、創価大学、高校など自前の教育機関も持っており、雑誌では「潮」「第三文明」などを発刊、主要取引銀行の東京三菱銀行などは創価学会の聖地である信濃町をエリアに含めた支店には仏壇を飾っていて、行員が題目をあげると噂されるほどである。東京都なども副知事1人は必ず都庁内の学会閥から出すという不文律があるとされ、東京郊外や大阪などには自治体の職員がほとんど学会関係者というところも少なくないという。
 
 「♪広き荒野に、我らは立てり」などといった学会歌というのは実勢500万人という日本人学会員の誰しも知っているのにその他の人には全く知られていない、或いはシアトル事件、大阪事件などといった単語にも500万人を超す日本人は必ず反応するが、その他の人は何事かまったく知識がない。これだけの情報の隔絶というか、落差というか、凄い事である。週刊誌の記事では一方的すぎる、かといって学会員に書かせると池田先生などと敬語表記になってしまい違和感のある事この上ない。そろそろ中庸な立場から昭和史の中に大きな地位を占める創価学会を分析する記事が多く出てもよい頃ではないか。
 
 創価学会のこれまでの歴史を簡潔に記そう。
 

 昭和3年 牧口常三郎が創価教育学会設立


 昭和18年 牧口常三郎、戸田城聖が不敬罪で逮捕


 昭和19年 牧口常三郎獄死


 昭和20年 戸田城聖が創価学会再興


 昭和22年 戸田城聖と池田大作初対面、後に池田大作入信


 昭和26年 聖教新聞発刊


 昭和27年 池田大作、香峯子(白木かね)結婚


      狸祭り事件、日蓮正宗の小笠原慈聞を学会が吊し上げ


 昭和28年 本部を信濃町に移転、それまでは神田にあった


 昭和29年 マスゲーム「世紀の祭典」スタート


 昭和30年 小樽問答、日蓮宗僧侶ら学会員に囲まれ立往生、その後、日蓮宗は学会との法論は禁止


 昭和32年 大阪事件、池田大作が選挙違反で逮捕、後に無罪「師弟不二」


      夕張炭鉱で労組と激突


 昭和33年 戸田城聖急逝


 昭和38年 シアトル事件、阿部日顕が売春婦とトラブルと学会は後で主張


 昭和39年 公明党結成


 昭和44年 藤原弘達の学会批判本に出版妨害工作


 昭和45年 共産党宮本議長宅盗聴事件、後に判明


 昭和47年 池田大作、トインビー会談


 昭和51年 月刊ペン事件、池田大作不倫報道で学会が出版妨害工作


 昭和54年 日蓮正宗との対立から池田大作、会長を辞任


      日蓮正宗の日達上人死去


 昭和56年 反学会で内部情報漏洩の学会元顧問弁護士山崎正友が恐喝で逮捕


 昭和58年 池田大作、国連平和賞受賞、以後、世界各国から表彰相次ぐ


 平成元年 1億7000万円入り金庫投棄で持ち主に学会幹部名乗り出る


 平成3年 阿部日顕の日蓮正宗と喧嘩別れ


 平成5年 細川政権で公明党初の大臣誕生


 平成7年 東村山市議転落死で遺族が学会関与と主張し裁判化


 平成8年 元学会員信平夫妻が池田大作に暴行されたと賠償訴訟起こす、後に学会勝訴


      池田大作暴行を報じた「週刊新潮」との対立決定的に


 平成10年 竹入義勝の朝日新聞連載回顧録が内部で問題化、竹入批判始まる


 平成11年 公明党、自民党と連立で池田大作、事実上のキングメーカーになる


 平成18年 池田大作、海外の大学、学術機関から200個目の名誉称号授与


(九)最後に;日本文学と創価学会
 
 最後に日本の文学作品の中に登場する創価学会の姿について幾つか取り上げてみたいと思う。普通に暮らしていれば誰しも自分の生活圏に必ず1人や2人、学会員が存在するものである。しかしなぜか小説をはじめドラマにも芝居にも学会員は登場する事はない。現代日本を舞台にした作品を書くならば端役でも典型的な学会員が出現しても不思議ではない、むしろ出現しない方が実は変なのである。戦前の小説には天理教信者がよく登場していた。なぜ戦後の小説には学会員は登場しないのか。筆者が日本文学だけでも優に2000冊超の小説作品に眼を通してきた中で、創価学会に関する記述で記憶のあるものは下に挙げた例をとどめるのみである。現代を映す鏡として小説があるならば、日本人の何パーセントかを構成している創価学会を避けて通る日本文学はリアリティに欠けるのではないか。
 
否定するケース〜作家・水上勉と筒井康隆の場合
テキスト「凩」(水上勉)、「末世法華経」「堕地獄仏法」(筒井康隆)
 
 水上勉の「凩」という長編作品は死と静かに対峙する老人達の物語である。この作中には様々な老いの形が出てくるのであるが、最も不幸な死に方をする例として主人公の知己である老婆きんの話がある。きんは心教学会という題目を唱える新興宗教団体の信者であるが、嫁との折り合いが悪く自殺してしまう。作者は主人公の眼を借りて、この心教学会をこれでもかと批判している。普段は顔を見せないのに葬式だというと大勢で駆けつけて大声で題目を唱和する、創価学会の会員葬を模したと思われる信者が仕切る葬儀。そして香典を全部、学会が持っていってしまうらしいとのアパートの隣人の噂話。さらには生前、きんがこぼしていたという祈伏ばかりで心休まる間もないという学会批判の愚痴。主人公はきんの葬式を信者達の「自己満足の祭り」と断じて、野辺送りの方がどんなによいだろうかと思念するのである。
 
 作者は若狭の出で青年時代を京都に過ごした事もあり、「一休」「良寛」など名僧と呼ばれる人物を題材にした作品の一方では、既成仏教についてかなり批判的な見方をした作品もある。この作者の宗教観にとりたてて色はないのであるが、ある種の諦念を以って自若として死を迎えたいという姿勢はこと晩年の作品では明確だった。そこで作者の死生感の全く逆に位置する生臭い人工的な存在としての新興宗教の胡散臭さという例の引き合いとして創価学会を模した心教学会なる教団を登場させ、主人公に散々に批判させているのではないかと思われる。
 
 筒井康隆の「末世法華経」には名前もそのままの総花学会と恍瞑党が登場、日蓮が現代にタイムスリップして総花学会の集会に出席するのだが、自らの辻説法を講談屋の捏造であるとされ、「口から出まかせも、ほどほどにせい!」と激昂、信者らに暴行されて「桑田変じて滄海となる。末世とならば法華経も」と号泣するという話である。「堕地獄仏法」は総花学会と恍瞑党が政権を掌握し、統制委員会によって自由な言論が出来なくなるという近未来の日本を描いたもの。そこでは法主が絶大な権力を持っていて、作家である主人公は総花学会に批判的な出版社と総花学会信者らの銃撃戦に巻き込まれてしまう。ここまでストレートな話も珍しいが、「権威」を徹底的にパロディ化する作者ならではの作品だろう。作者は創価学会を「権威」として捉えて、それに反発している訳である。
 
傍観するケース〜作家・中上健次と有吉佐和子の場合
テキスト「黄金比の朝」(中上健次)、「非色」(有吉佐和子)
 
 「黄金比の朝」ではアパートに住まう主人公の隣家に住む家庭不和の男が朝から延々と題目を唱えるシーンが冒頭に出てくる。主人公はこの題目を近所迷惑だと感じているのだが、踏み込んで宗教そのものを非難する事はない。主人公の焦燥感や閉塞感を煽る一つの舞台装置としてこの題目が使われているのであって、それ以上の、それ以下の意味もないのである。だが創価学会員をこういう端役にせよ、登場人物として取り上げる作品は日本文学では希有なので特筆してもよいであろう。
 
 「非色」の舞台は一転してアメリカである。アメリカ人に向って日本文化や日本仏教のレクチャーを行う老人が出てくるシーンがあるのだが、学会信者に言わせると、作中では禅宗となっているがモデルは紛れもなく海外広布初期の創価学会の姿なのだという。正直言ってこの作品には題目も出てこないし、世間一般に認知されている学会らしさは登場人物の明治翁には皆無であるのだが、これは作者が徹底的に自己の作品をフィクションとして扱うために学会色を消した効能なのだろうか。
 
支持するケース〜作家・宮本輝の場合
テキスト「春の夢」「避暑地の猫」
 
 「春の夢」は学会文学と呼んでさしつかえない作品である。事実、作者は過去にその信仰を語った事がある。作中に学会の二文字は決して出てこないし、また題目を唱えるシーンも出てこない。しかし主人公の青年の思考、あるいは周囲の人間の動きが創価学会の教義そのままなのである。例えば主人公が唐突に親鸞の「歎異抄」を非難するくだりがある。親鸞は「敗北の宗教」で歎異抄は「地獄の書」であるとして、ちょっとそれまでの筋運びからいくと常軌を逸した断じ方である。親鸞の浄土真宗の教義は現世がいかに辛くとも来世で救われる式のいわば運命論である。創価学会の教義は現世での自己変革による宿命転換を追求するアンチ運命論である。これでは相容れる訳がない。
 
 また「春の夢」の後半部では主人公が懇意にしていた京都に住む老婆が苦しみに歪んだ死顔で死ぬシーンが出てくる。これも作品の前後からすると極めて不自然なのである。穏やかな余生を送っていた老婆がなぜ唐突にこんな変な死顔になる必要があるのか。すると主人公は老婆は生前に悪業をしていて、それが死ぬ時に顔に出たのだと解釈を下すのである。これも創価学会の教義に同じである。基本的にこの作者の他の作品にはこうした学会色はまったく存在しないだけに、「春の夢」の突出ぶりが際立つのである。
 
 例外として「避暑地の猫」の冒頭にも創価学会ならではといったシーンが出てくる。これも本筋と関係がない少年が寺の境内の落とし穴に嵌まって運悪く竹が突き刺さって死ぬのであるが、この寺の住職はなぜか禅宗なのである。しかも顔色のドス黒い、いんちき臭い態度を示すなどあからさまに住職に悪意をもった記述が続くのである。作品そのものにまったく関係ない、むしろ不自然過ぎて不要とも思えるこのくだりは創価学会以外の仏教はすべて邪教とする創価学会の教義に基づいたものとして差し支えあるまい。こうした一般の読者が読むと極めて変なくだりは、作者の学会信者に対する隠しメッセージなのである。過去に「笑点」という番組で学会員である林家こん平が、ジョージ・チャキリスの指弾きは格好いいが、ポール牧の指ぱっちんは無様だ、と何が面白いのかよくわからない発言をしたのと同じである。林家こん平のこの大喜利での発言はジョージ・チャキリスが学会員で、ポール牧は禅宗の僧侶である事を踏まえての遠回しな学会信者へのメッセージであった。

参考
アエラ編集部「創価学会解剖」 1996
朝日新聞東京版各記事など 1956〜1988
有吉佐和子「非色」 1988
池田大作「人間革命」(聖教文庫版) 1971〜1994
佐高信/テリー伊藤「お笑い創価学会 信じる者は救われない」 2000
塩瀬哲生「内側から見た創価学会」 1991
四宮正貴「創価学会を撃つ!!」 1988
筒井康隆「東海道戦争」(中公文庫版) 1978
筒井康隆「笑うな」(新潮文庫版) 1980
中上健次「岬」(文春文庫版) 1978
中嶋繁雄「日本の名門200」 1994
古川利明「カルトとしての創価学会=池田大作」 2000
古川利明「システムとしての創価学会=公明党」 1999
古川利明「シンジケートとしての創価学会=公明党」 1999
別冊宝島「となりの創価学会」 1995
毎日新聞東京版「公明党の衆院進出と今後」記事 1967
水上勉「櫻守」(新潮文庫版) 1976
宮本輝「春の夢」(文春文庫版) 1988
宮本輝「避暑地の猫」(講談社文庫版) 1988
<映像>舛田利雄「人間革命」 1973