量子力学及び宇宙論など、科学的なアプローチから
(超ひも理論と宇宙の力の存在と空の意味(^_^;))

 現在、最もモノの究極の姿を説明できると言われる、「超ひも理論」の簡単な概要は、まず超ひも理論とはを参照してください。

 そしてもう少し詳しくはここの超ひも理論を読み、その 直径をもたない物質の究極の「ひも」を動画で実感するために、目で見る超弦理論も見てください。

 これで大体、現代物理学の先端の理解ができてきたと思うのですが、何か霊的な存在の手がかりを求めていた人は、この超ひも理論の中の 5つの体系の1つである、ヘテロEに出てくる「影の宇宙」に注目するでしょうね。(^_^;

 引用開始

 超ひも理論は、重力の可能性を許すものではなく、むしろ重力の存在を要求すると考えられています。超ひも理論のひとつのグループE(8)×E(8)群の構造(ヘテロE)からは、不思議な世界の存在が予想されます。つまり、 この群の構造をそのまま解釈すると、宇宙には二つのE構造が存在すると考えざるを得ません。そのうち一 方のEgの上に成り立つ世界は、われわれを作り出したり、われわれが住んだり見たりする天体を作った物質や力を含んでいます。残るもう一方のEgの上に築かれた世界は、われわれが知っている三つの力−強い力、弱い力、電磁気力−は存在しません。両方の世界を関係づけているのは重力だけ。このわれわれにはまだ確認できていないもう一つの世界は、「影の宇宙」と呼ばれます。

引用終わり

 この影の宇宙の存在については実験的にも簡単に推測できるようです。影の光子を読んでみてください。

 さてこの宇宙を構成する「モノ」以外としては「力」がありますが、これには4種類あって、重力、電磁気力、強い核力、弱い核力です。 わかりやすい説明は「自然界の4つの力」を読んでください。 これを読むとわかりますが、私たちが一般に使う「力」(誰かを殴る、などの力 (^_^;))とは、電磁気力のことで、これは光子によって伝達されているのです。(伝達されていく粒子の間を光子をお手玉しながら、というか、最初の車を粒子とすると、光子を玉突き衝突させ、その反動の光子も受けながら、最初の車の電磁気力が伝わっていく感じ (^_^;)(電磁気力は光子が媒介する?を参照)

 余談ですが、陽子と中性子などを結び付けている「強い核力」は昔、湯川博士が発見して「中間子」と呼んでいた素粒子が伝達しています。 現代科学が見る世界観は「この宇宙は、「」と「」から出来ている」を参照してください。

 これまでのところから推論していくとモノの存在は単にひもの振動の表れの一面にすぎず、また私たちが暮らす4次元のこの宇宙とは別に重力しか存在しない、別の影の宇宙が存在し、その影の宇宙とは重力子を通じてしか交信することができないのです。 と言うことは、モノの存在は私たちが認識しているこの宇宙ですが、もしかしたら、まだ認識されていない、その重力子によって影の宇宙と交信し、もしくは、心の実態はもしかしたら、その影の宇宙にあって、その重力子によって、この私たちが認識する宇宙が影響を受け、形として顕現しているだけで、本当の私たちの心(魂)は、その影の宇宙に実在しているのかもしれませんよ。(^_^;)

 さて、また、物理学に戻って、この私たちの宇宙でのモノの存在とは単にひもの振動であり、それがいろんな粒子の特性をもっているように見えるのだけれど、それは単に振動数やひもの性質が違うだけで、言ってみれば、モノとは色 であり、その色が違って見えるだけであり、力もそれらのひもが振動しあって伝達しているにすぎないのです。言い換えると、モノというのはなく、単にゆらぎがあるだけで、それはそこにある、と言えばあるのだけれど、ないと言えばない、そんな存在なのです。

 このことより連想するのは、「空」という般若心経の言葉の意味です。
(「般若心経」より以下引用)

 「空」を説明する場合に、まず実体的な見方を否定し、次にそれを相対的に認めることで何も存在しないとう極端な考え方を否定し、最後にそのどちらにも片寄らない中立の立場に立つ、というように3段階で説明をする....

 なお「空」の意味は、【 空の思想 】より

空とは、「ものが究極的には存在していないこと」を指す言葉でもなく、また、「ものの存在の仕方が幻想のように主観の創作にすぎないこと」を指す言葉でもなく、また「存在の仕方が何となくぼんやりしていること」を指す言葉でもありません。
そうではなくて、空とはものに自性が欠如していることを指す、極めて意味の明確な言葉です。

 それでは、その自性とは何かと言うと、「他のモノに依存しない、作られたものでない」ということであり、結局、そんなモノはこの世界には存在しない、ということを般若心経では言ってるのです。

 現代物理学の世界と般若心経の世界はそんなに矛盾してないなー、と思いました。
また心の宇宙の存在ももしかしてあるのかなー、などと想像してしまいますね (^_^;

なお、以下からは【 空の思想 】要点をピックアップしておきますね。

自性が、もろもろの縁と因とによって生ずると言うことは正しくない。自性が縁と因とによって生じたものであるとするなら、つくられたものである、ということになるであろう。(中論15:1)
さらにまた、どうして、自性がつくられたもの、ということがあるであろうか。なぜならば、自性とは、つくられたのではないものであり、また他に依存しないものなのであるから。(中論15:2)

「縁と因」というのは現象を生じさせる「条件や原因」のことですが、自性は条件や原因なし存在している、といいます。
 また、その理由として、自性はつくられたものではないからだといいます。
そして、自性は他に依存しないともいっています。
つまり、ナーガールジュナによれば、自性は自立自存をその特徴としていることがわかります。

 さて、もし自性がそのような性質のものであるとすれば、その存在は無条件に成立していることになりますから、当然、自性は常住かつ不変不滅ということになります。

ところでナーガールジュナは、自性というものを、ブッダが否定したアートマン(個我)と同類のものと見なして、それを否定していることがわかります。
 

  存在 内在すると誤って信じられているもの 真実
ブッダ 人間 アートマン(個我=恒常不滅の魂) 無我
ナーガールジュナ もの スヴァバーヴァ(自性) 無自性、空

このことは、さらに次のような彼の言葉から、さらに確証されます。
存在によく通じているひとたちは、存在は無常であり、欺く性質があり、空虚であり、空であり、無我であり、したがって寂離であると見る。(六十頌如理論25)
つまり、空であること、無自性であること、無我であること、これらはナーガールジュナにとって同類なのです。

さて、仏教の世界観は「一切」と言う言葉に象徴されていますが、その「一切」とは

いわゆる原始仏典の一つである経典集に、「一切」という名の短いお経が収められています。
それによるとブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、次のように教えたというのです。
 

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタニカーヤ 33.1.3)

これが実際にブッダ自身の言葉かどうか確定する術はありませんが、初期の仏教の世界観を知るうえで、大変貴重なお経のひとつであることは確かです。
この世界観には、少なくとも二つの注目すべき特徴があります。
一つは、存在を認識主体とその対象というペアで見る視点です。
もう一つは、人間の経験的あるいは知的能力を超えた領域に関しての主張は控える、という態度です。

このような彼らの世界観の特徴は、彼らの人間観にも見られます。
それが有名な五蘊説です。
蘊(うん・おん)というのは、「スカンダ」(skandha)の漢訳ですが、「集まり」を意味します。
人間存在は五つの集まり(蘊)から成立している、という見方です。
この五つの集まりというのが「色・受・想・行・識」です。
」(ルパ)の語義はまさに英語の「カラー」ですが、一般に肉体あるいは物質一般を意味します。
認識主体の対象すべて(つまり物質世界)を、視覚対象である色が代表しているわけです。
この「色」の対極にあるのが「識」です。
」とは意識あるいは心を指し、まさに認識主体そのものです。
」は、「痛い」とか「冷たい」などの感受、すなわち感覚のことです。
」とは、方向性を持った意識のことで、意志を意味します。
」は(ある対象や現象を)想うことです。
そうすると、「色・受・想・行・識」という五つの集まりは、バラバラの集まりではなく、そこにはひとつの明確なオーダーが見られます。
つまり、一方では、物質から感覚へ、感覚から想いへ、という、いわば認識対象からの刺激の方向性があり、他方、心から意志へ、意志から対象の想いへ、という意識の方向性があります。
五蘊説による人間観とは、このように、人間存在を認識主体と認識対象の相互関係として見る視点のことに他なりません。
五蘊とは、この関係を認識のプロセスの観点から分析した構成要素です。
そしてまた、ここにも、人間の経験や認識能力を越えたものは一切考慮に入っていません。
つまり、この五蘊説の人間観にも、認識主体とその対象の相対的関係からものごとを見る視点と、超越的存在に関しては言論を差し控えるという、初期の仏教の世界観を支配していた同じ原理がみられます。

 

【対象】色(物質)・受(感覚)・ 想(思い)・行(意志)・識(意識)【主体


 しかし、この「色」を肉体に限れば、これは人間存在を分析したものですが、物質一般とみれば、世界そのものとなります。
したがって、「一切」とは、この五蘊のことである、ともいえます。
したがって、「一切のものはすべて自性を持っている」とか、「一切のものはすべて空である」など、と仏教徒がいうときの「もの」(ダルマ、法)とは、このようなかたちで存在を分析したときの五蘊のことです。
だから、たとえば、現代でもポピュラーな経典のひとつ
『般若心経』のなかでも、「五蘊皆空なり」とか「色は即ちこれ空、空は即ちこれ色なり。受想行識もまたかくのごとし」というふうに表現されているのです。

 

 ナーガールジュナは、ものは依存関係のなかで存在しているのであって、自性主義者が言うように、ものに内在する不変の本質のようなものによって自存しているのではないという主張を展開し、空とは縁起のことに他ならない、と語ります。

 

「 空 = 無自性 = 縁起 」という等式が成立します。
 

ものはすべて元素を因として成立しているが、そのことが縁起によって成立しているということであり、もしものがこのように、あるものに依存して成立しているならば、それ自体(自性)としては空である。したがって、ものはすべて空である。(空七十論 53自注)
眼[見る作用]は依存関係から生じたものであるから空である。なぜなら、眼[見る作用]というものは[見られる対象との]依存関係によって成立しているからである。依存関係によって成立しているならば自体[自性]として成立していないから、したがって眼[見る作用]は自体[自性]が空である。(空七十論 同上)
およそ、ものが縁起しているということを、われわれは空であると説くのである。(中論 24:18)
およそ、どのようなものでも、縁起しないで生じたものはない。したがって、いかなるものであろうと、空でないものは存在しない。(中論 24:19)
また、ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれは言うのである。他による存在には本体[自性]はない。(廻諍論 22)

こうして、ナーガールジュナは、空とは縁起である、という、おそらく彼の中心思想とでも言うべき主張を確立します。

 

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